「休暇届ねぇ…何か、あったか?」
虎牙は、今し方、その紙を突きつけてきた相手―未那に向かって、問う。
未那の方は未那の方で、微妙に目尻を腫らして俯いていた。
「……何も…なぃ…。…ただ、ちょっと…、試衛館の方に行ってみたくなっただけ…」
それだけ言うと、また口を硬く閉じる。
「試衛館…ね。…近くに、お前の生家もあったっけか?」
虎牙が聞くと、未那は首を縦に振って答えた。
「おいおい…3、4日で行って帰って来れる距離か?」
ふと自分達が江戸からこっちに来たときのことを思い出す。
片道だけで1週間近くはかかったはずだ。
「…飛んでくから…」
「確かに。飛んでくなら早ぇわな」
飛んでいけば、1日かければ何とか飛んでいけるだろう。そして、1、2日程向こうに滞在したとしても、3、4日で帰ってこれる。
納得して、虎牙はその休暇届にサインを入れた。
「受理するよ。この休暇は、旦那も取ってんのか?」
にやりと笑って、聞いてみる。
すると、未那は首を横に振ってから、口を開いた。
「ナツには、このこと…言ってない。虎牙にしか言ってないから…、誰かに言うも言わないも…虎牙の判断に任せる…」
「任せるって…。心配かけさせるようなことするなら、俺は言うぞ」
虎牙は眉間にしわを寄せ、未那を軽く睨みつけた。
「…だから…任せるって言ってるでしょ…? 言いたければ…言えばいい…」
睨まれつつも、視線を逸らしてそれから逃れようとする。
「わかったよ。まぁ、期限内に戻って来い」
「……ん…」
未那はこくんと頷くと、反対方向へと駆けて行った。
*** *** *** *** ***
約1日かけて牛込へと辿り着いた未那は、初めに行くと言っていた試衛館には足を向けず、自分の生家へと足を向けた。
町を追い出された後に聞いた話では、誰かが移り住んだと聞いたが、あれから10年、どうなっているかは聞いたことがない。
上から見下ろすと薄っすらと明かりが灯っていた。
「…だ、れ…?」
いきなり下から声をかけられて未那は慌てる。
「えっ…ぁ…そのっ…」
見下ろすと、蒼っぽい髪の5、6歳くらいの女の子が未那のことを見上げていた。
「お姉ちゃん…誰? お客様…?」
「…ぁ…ぅん…」
女の子の純粋な目に見上げられ、客ではないけれど未那は遠慮がちに頷いた。
「お客様なの? わぁ…それじゃあ、中に入って! 今日は母様とボクだけだから、ちょっと淋しかったのっ」
降りたった未那の着物の裾を掴んで、少女は部屋の中へと導いた。
「母様、母様! お客様だよっ…綺麗なお姉ちゃんなのっ」
少女が未那を導いた部屋には、布団に横たわっている女性が居た。
その女性は未那に気付いて、起き上がろうとする。
「…ぁ、ムリしないでください。…その…夜分遅くにすみません…」
未那は、起き上がろうとする女性を止め、俯いて謝罪した。
「いえ…こんな家に来てくださるなんて…、疲れているようだけれど…1晩の宿でも…?」
その女性は横たわったまま、未那に優しい笑顔を向けて問い掛けてきた。
「…あ…はぃ…まぁ…」
「ふふっ…そんなに堅くならなくていいのよ。…1晩と言わず、ゆっくりして行って。狭霧も喜ぶわ…」
傍まで来ていた先ほどの女の子を撫でて、その女性はまた未那に微笑んだ。
台所を借りて、軽い食事を作ると、未那はその3人分の料理を女性の寝室へと運んだ。
「ありがとう」
女性は微笑んで、感謝の言葉を言う。
食事をしながら、未那は二人の名前を聞いた。
女の子の名は先ほど女性が口にしていたとおり、狭霧と言う名前らしく、女性の名は偶然にも、未那の母、葛葉と漢字違いで、読みは同じで樟葉と言った。
二人の暖かさに、未那も今回ここに来た理由を素直に話すことが出来た。
「そぅ、ここは未那さんの…」
「…ここを出たすぐ後に、誰かが移り住んだということは聞いていました…が、それから10年も経ってしまっているので…どうなっているのか、気になりまして…」
普段あまり使わない丁寧な言葉を、ところどころつまりながらも操る。
「それじゃあ、やっぱり…1晩といわず、気が済むまでゆっくりしていってくれると嬉しいわ。…ご自身の生まれた家だもの、私たちに気を使わず…ホント、自宅のように…ね?」
樟葉はまた優しい微笑みを未那に向ける。
「…ぁ…ありがとう…ございます…」
何だか、母、葛葉に笑顔を向けられているようで、照れてくる。
食事後、狭霧の誘いで未那は一緒にお風呂には入り、そして3人揃って眠りについた。
*** *** *** *** ***
翌朝、未那は日の上がらないうちからそっと布団を抜け出し、紙と筆を借りて、二人宛に置手紙を書いていた。
短い時間ながらも楽しめたこと、悩んでたことが解消されたということ、それからまた時間をかけてゆっくり訪れさせてもらいたいということ。
どれも一筆一筆心をこめて文字にしていく。
書き終わった頃には、東の空に太陽の頭が見え始めていた。
未那はそっと部屋を出て、庭に出ると翼を広げる。
「もう行ってしまうのね…」
不意に後ろから声をかけられて驚き、振り返る。
声の主は樟葉だった。
「…あ…は、はぃ…。その…お世話になりました…」
ぺこんと頭を下げると、再度翼を広げ、羽ばたき舞い上がる。
「…狭霧ちゃんに…また来る…ってお伝えください…。ホント…ありがとう、ございました…っ」
未那はくるっと反対を向いて、京へと帰っていく。
10年程前、一匹の変化狐とその子供が暮らしていた建物には、その楽しく暮らしていたときを物語る手毬や巻物、そして一通の手紙が残され…今では廃屋と化していた。
終。