里音が呼ばれた理由。
それは朔に死期が近付いているからだった。
朔とは、里音が生まれる前から藤守家にいる銀狼で、人間の年に換算するともう80〜90に近いくらいであった。
里音が海龍学園に入学が決まったとき、どんなことがあっても卒業するまでは戻らないと言っておきながらも、ルカと朔に何かあったときだけは呼び戻して欲しい。
そう言って、2匹をディアセイルの祖父の家に預けていたのだ。
1日半かけて、祖父の家―藤守家に着くと、従姉の水音と羽音が朔の世話をしていた。
「朔はっ!?」
駆け寄り2人に聞く。
「今は寝ているみたいだけど…」
「そろそろ危ないってお祖父様が…」
水音と羽音が口々に言う。
「そか…」
里音は朔に近づき、その寝ている頭をそっと撫でる。
寝ていた朔はぴくっと反応し、うっすら目を開けるとその視線を里音へと向けた。
「ほぇ…ごめんね、起こしちゃった…」
里音は撫でながら、そっと話し掛ける。
後ろでその様子を見ていた2人は、顔を合わせるとそーっと部屋から出て行った。
数十分程経ったか。朔がまた眠りについたようなので、撫でていた手を止め、里音は久々にディアセイルの森を散歩することにした。
数年来ていなくても、やはり開発の届いていない田舎のため、景色はそうそう変わってなかった。
少し遅い紅葉が辺り一面を燃やしている。
いろいろと回って、他の民家が見下ろせる里音のとっておきの場所でぼーっと沈みゆく太陽を見ていると、気付けば辺りは夕闇に覆われ始めていた。
「…そろそろ帰ろうかな…」
腰掛けていた丸太から立ち上がり、くるっと振り返るとすぐ後ろで朔が尻尾を振っていた。
「ほぇっ!? お前、こんなトコまで追って来たのっ?」
驚きながらも里音は丸太を跨いでから屈み、朔をそっと撫でた。
朔も返事をするかのように里音の頬を舐める。
「とりあえず、帰ろ。…お前まで居なかったら皆が心配してるよ…」
立ち上がり、朔の歩くスピードに合わせて歩き出す。
…と、その時、横の茂みががさがさっと動き、野犬が飛び出したかと思うと里音に襲い掛かってきた。
「ふぇっ!?」
咄嗟のことに避けきれず、里音は顔の前で腕を交差させ、防ごうとする。
…が、何かが頬を掠めた気はしたが、野犬が襲い掛かってくる様子はなく、頬を何かが掠めただけで代わりにどさっと何かが倒れる音がした。
反射的に閉じていた目を開けると、そこには朔が倒れ、傍で野犬が再度襲い掛かる機会を覗っている。
「朔っ!!」
朔を気にしながら、手持ちの数本しかない千本を野犬に向かって投げる。
当てる気がなかったので、その千本は野犬には当たらなかったが、掠りでもしたのか野犬は悲鳴を上げて茂みの中へと帰っていった。
「朔っ、朔っ」
里音は朔の傍に駆け寄る。
首の辺りが出血で赤く染まっているのが暗闇でも分かる。
里音は服の袖をちぎって溢れ出している血を拭い始めた。
なかなか血は止まらない。
噛まれた所が喉元でないにしろ、喉に近い首を噛まれている。
なるべくなら早急な手当てが必要だと里音は感じた。
だが…。
「運べ…れるような、大きさじゃないよね…」
里音の身長で朔を運ぼうものなら確実に尻尾と後ろ足を引き摺ってしまう。
それを考えると、まだこの場にいて2人を探しているだろう皆を待った方がいいかもしれないと考えてしまう。
運ぶのを諦めた里音は、その場に座り込み、膝に朔の頭を乗せる。
その間も朔は里音にその巨体を委ねていた。
「…ごめん…、ごめん…ね。ぼくが不用意に…出てきた上に…朔まで…巻き込ん…じゃって…」
朔の背を梳くように撫でる。
自然と涙が溢れて来る。
嗚咽交じりで、朔に謝る。
そして、その言葉に答えているかのように、朔は鼻で鳴き、力なく尻尾を振った。
思うように動かない頭を起こし、先刻の野犬につけられたのだろう里音の頬の傷を舐めた。
「ホントに……ごめん…」
背を梳く手は止めず、何もしてない方の手が拳を作る。
今までどんなときでも守って来てくれた朔を、こんなときに守ってやることが出来ない自分が悔しく思える。
朔はそんな里音を励ますかのように、尻尾を振ろうとする。
だが、思うように動かず、ついにはその尻尾が地に落ちる。
鼻で鳴いていた声も止まり、里音の方を見ていた瞳も閉じられる。
「……さ…く…? …嘘っ、やだっ!! 冗談…止めてよ、朔っ! 朔ってばっ!!?」
里音の問い掛けに、朔は尻尾でも瞳でも声でも答えようとしない。
ただその場に風が吹き抜け、その後は静寂が訪れるだけだった。
里音にはそれからかなりの時間が経ったように思えた。
あとから聞くにはほんの十数分だったらしいのだが…。
祖父や叔父が朔を運び、夕方頃に着いたという真琉が里音を背負って帰ったのだと聞く。
その日は遅かったので、朔は翌日に里音のとっておきの場所に埋葬された。
埋葬した場所に立てたクルスには、朔のネームプレート付の首輪が掛けられている。
「里音ちゃん…」
クルスの前でクルスとその向こうに広がる景色をぼーっと眺めている里音に羽音が話し掛ける。
「…里音ちゃん…明日の朝…発つんでしょ…? 姉様が送るって…行ってるよ…?」
あまりにも朔の死に対して、我を失いかけている里音を心配して水音が学園まで送り届けるということが先刻決まったらしい。
「…里音ちゃ…」
再度呼ぼうとする羽音の言葉は、後ろからやって来た真琉の手で遮られた。
「リオ…ほら」
真琉は一つの小さな包みを座っている里音の膝に置いた。
「真琉お兄ちゃんに、羽音ちゃん。…何…? これ…」
そこでやっと反応がある。
まるで今までの羽音の言葉が耳に入っていなかったのか、2人が傍に来ていることをやっと知ったようだ。
「…朔の毛、加工したんだ。毛髪と感触違うから、ちょっと何だけど…な。まぁ、つけるかつけないかはリオの勝手。俺に出来るのはこれくらい」
包みの中からは朔の毛で出来たつけ髪が入っていた。
つければまるで髪を一つ結びにしたときのような感じになるのだろう。
「…ここ…」
里音は光を浴びて銀色に輝く毛の中に一房だけ、血がついたままの部分を発見する。
「あー…なるべく、綺麗なトコを取ったつもりなんだけど、な。作った後に気付いて、それ、洗っても落ちなくて…」
「…そか…」
里音はまた包み直し、それをポケットへとしまった。
今はまだつけれない。
悲しみを吹っ切れるまでは。
いつまでも縛られてはいけない。
早く断ち切らないと…
そう思ってから、クルスの前を離れて、真琉と羽音の居る方へと歩き出す。
「行くか…?」
「…うん…」
「帰ったら皆でお昼です☆」