それは今から遥か未来の出来事。
人々の大きな大きな争いの結果、地上は人が住めないほど荒れ果てた。
それでも人々は生きたいという思いを持ちつづけ、地下と海底に街を作った。
物語はそれから五世紀ほど後のこと。
「ち、地上にっ!?」
港の一角で商人達から情報を聞いていた少女が情報の内容に驚いていた。
「そう。あの荒れた地上で何かをしようとしているグループがあるんだそうだが……、その中の一人に緋月と呼ばれている男がいたそうだ。まぁ、噂に聞いただけだから本当かどうか分からないけどねぇ」
「地上か……。ありがと、おじさんっ!またいい情報期待しますねっ!」
少女は今し方情報を提供してくれた商人にペコッと頭を下げて、市街地の方へと駆け出していった。
「おやおや。元気なお嬢ちゃんだねぇ」
駆けていく少女の後姿を見送りながら、商人は呟き、また荷物の確認へと戻っていった。
「あら、紫月ちゃん。今日も何処かに出かけていたの?」
「こんにちはっ! 少しそこまで出てただけですっ」
住宅街に近付くに連れ、道端で話している女性達が少女―紫月に話し掛ける。
紫月は駆けるスピードを緩めず、その女性達に笑顔と一言だけ残し、家へと急いだ。
「ただいまっ!」
紫月は家に帰るなり、大きな声で挨拶する。だが、返事はない。
あるとすれば、兄・緋月が帰ってきたか、間抜けな泥棒がつい返事をしたかぐらいだ。
「やっぱ、お兄ちゃん、帰ってないか……」
紫月は兄の部屋を見渡す。そして、今は亡き、両親の部屋も見渡した。
紫月は六年前に事故で両親と死に別れ、それから一年間は兄と暮らしていた。
しかし、その兄も出かけるという書置きを残したまま、一向に帰って来ない。
五年間、近所の人々に世話になりながら、紫月はずっと兄の行方を探した。
そして、今日、商人から兄らしき人物の情報を聞いたのだった。
「陸、かぁ……」
いつの間にか自室へ帰っていた紫月は空を見て呟く。
この街は五世紀ほど前の争いの末に作られた海底都市である。
そのため、本当の空ではなく、透明のドームの向こう側に光で綺麗に揺らめく水が見えるだけではあるが、本物の空を見たことがない紫月にとってはドーム越しの海が空であった。
陸に行くには、潜水艇を手に入れなければならない。そして、港を出るときには、潜水艇一つ一つにつきチェックがあるということも紫月は商人から聞いていた。
「遠い、なぁ……」
何も出来ないまま、一週間が過ぎていた。
未だに紫月は陸へ行くチャンスを手にしていない。
普段なら港に行く日だったので、とりあえず、行ってみることにした。また何か情報があるかもしれない。
港に着くと中央の辺りに商人の船にしては質素で、でもやけに大きい潜水艇が止まっていた。
「何だろ……?」
紫月は恐る恐るその潜水艇に近付いてみる。
それは遠くで見るより近くで見た方がもっと大きいものだということが少し近付いただけで分かった。
「何処かの貴族か商人のかな? それにしては質素だけど……」
潜水艇を見ながら、ぼそぼそと独り言を言っていた、その時だった。
「……質素で悪かったな。人の船に文句をつけるなら、どうなっても知らないぜ?」
一言で言えば、柄の悪い男が紫月に話し掛けた――いや、正しくは脅し掛けた。
振り向いた紫月は男の人相に驚いて固まる。
無表情でも怖い部類に入るようなその男は、紫月の先ほどの呟きに少しばかり怒ったような顔をしていた。
無表情で居ても怖いのに、そんな顔をしているとますます怖い。
紫月は固まる足を何とか動かして、二、三歩後ろへと下がった。
誰かにぶつかったような気がすると同時に、頭上から声が降ってくる。
「こら、シャドウ! 彼女、驚いてるじゃないか」
紫月の後ろから顔を出したのはいかにも人の良さそうな男だった。
紫月は二人が一緒にいることに何か凄い組み合わせを見たと思う。
「お嬢さん、こんにちは。シャドウ、いや、このお兄さんに何か悪いこととか言われたりしなかった?」
人の良さそうな男の方は荷物をシャドウと呼んだ男に預けて屈むと、紫月と話しやすいよう目線を同じにした。
その動作を見ていると小さい子供の相手になれているような気がする。
「え?いえ、何も」
「君はこの街の子?」
「えぇ」
紫月は何となくこの人の良さそうな男のペースに流され、質問されるがままに答えた。
「僕、ライト=イーグルって言うんだ。君は?」
男―ライトがいきなり名乗り、紫月にも名前を聞いてきた。
「あ、あたしは紫月です」
すっかりペースに流されていた紫月は何も疑うこともなく名乗る。
船の方で先程の柄の悪い男がライトを呼ぶ。
「あ、もう時間か……。僕たち二週間に一度、ここに来てるんだ。もしあの船に興味を持ったんだったら、また二週間後に来ればきっといるから」
「あ、はい」
それだけ言うとライトは船に乗り込み、潜水艇は出航していった。
紫月は情報収集をすることも忘れ、そのまま帰路につく。
それから二週間はあっという間に過ぎた。
特に会いたいとは思ってなかったけれど、気が付けば何故か足が港へと向いていた。
「あ、紫月ちゃんっ!」
後方から呼ばれて、振り返るとライトが手を振っていた。
手を振り返して、ライトの方へ駆ける。
「こんにちは、ライト=イーグルさんっ!」
ライトと話すと、紫月は何となく笑顔になってしまう。
「ライトでいいよ。ところで、紫月ちゃんにどうしても会わせたい人がいるんだけど、今すぐには出れないかな?」
ライトはまた紫月と目線を合わせて、話し掛ける。
本当に子供との話に慣れているようだ。
「今すぐ……、ですか?」
紫月は少し困る。この後も兄の聞き込みをする予定を入れていた。
それに家を空けている間に兄が帰ってくることも…。
「あ、親御さんが心配するよね。どうしようかな。シャドウはそんなに船を出してくれないし……」
どうやらあの潜水艇はシャドウが操縦しているらしい。
自分の操縦する潜水艇を悪く言われたのだ、あれだけ怒る意味も分かった気がした。
「親はいないから大丈夫です。だけど……家を空けたら、お兄ちゃんが帰ってきた時に……」
紫月は俯いて、口を開いた。
「お兄さん?」
「……はい。親と死に別れてから一年間、兄と暮らしていたんですが、兄は何処かに出かけたまま……」
話している内に兄と過ごした日々のことを思い出して、目尻に涙が浮かんでくるのが分かった。
「……帰ってないって、辺りか?」
いきなり話にシャドウが加わってくる。
紫月はびくっと身体を強張らせた。軽い恐怖に浮かんだ涙も引っ込む気がした。
「……おいおい、そんなにびびるなよ」
シャドウは紫月の頭に軽く手を乗せ、数度撫でると中腰ぐらいで紫月と目線を一緒にする。
「……自己紹介が遅れた。俺はシャドウ=ホーク。ライトとは幼なじみだ」
シャドウは泣き止まない紫月に優しく話し掛ける。
紫月が思っていたよりは優しそうな人、らしい。
「……今度は来週に来る。そん時についてくる気があるなら、ここにいろ」
シャドウはそれだけ言って船に戻る。その間に紫月は泣き止んでいた。ライトは紫月が泣き止んで、笑顔を見せると、帰っていった。
一週間の間に紫月は部屋を掃除して、いつでも兄が帰ってきてもいいようにしていた。
前日の夜には兄宛に置き手紙も書いていた。
「必ず戻ってくる。ここに……できれば、お兄ちゃんと……。だから、留守番よろしくね」
両親の写真に話し掛ける。そして、紫月は港に向かった。
港に着くともうシャドウが来ていた。
「こ、こんにちは。今日は、シャドウさんだけなんですか?」
紫月はきょろきょろと見回して、ライトが居ないのを確認すると、恐る恐る聞いた。
いくら思っていたより優しい人らしいと分かっても、やはり最初の印象は強く、話すのに少しだけ抵抗がある。
「……あぁ、ライトはちょっと野暮用でな。まぁ、来るんだったら乗れよ」
シャドウは紫月を潜水艇へと案内した。
二人が乗り込むと潜水艇は発進する。チェックも何ともなくクリアし、海の中をひたすら進む。
やがて、紫月は潜水艇が海上を目指していることが分かった。
「……もうすぐ、だ」
操縦席の方でシャドウが呟く。
紫月には何がもうすぐなのかは分からなかったが、シャドウが何かを楽しみにしているということはすぐに分かった。何故だか嬉しそうに笑っていたから。
「……着いたぜ?」
潜水艇の扉が開き、頭を出した紫月は目の前に広がるものに驚いた。
紫月の目の前に広がるのは、生まれて初めて目にする陸というもので、幼い頃話に聞いていた荒れ果てた大地でなく、荒れていたハズの大地を緑が包んでいたのだ。
「シャドウ…さん?」
驚いたまま、紫月は後から降りてきて、いつの間にか横に並んでいたシャドウを見上げる。
シャドウはまた笑っていた。
「……驚くのはまだ早い」
少し笑いを含んだ声で話すシャドウは顎で、前方を見るよう促した。
「え?」
促されるまま、紫月は先ほど見ていた前方に顔を向ける。
前方からは二人の人影が近付いてきていた。片方はライトだ。
「久しぶり…紫月」
もう一人にそう声を掛けられて紫月は心底驚いた。
「お、お兄ちゃんっ!?」
そう五年前の兄の面影と声がそっくりだったからだ。
信じられないという顔の口元を両手で覆って、紫月はその男を見つめる。
「紫月ちゃんにお兄さんを探してるって言われてさ、スカーレットと紫月ちゃんってなんか似てると思ったし…」
「え? スカーレット…?」
紫月はまた驚く。
兄の名前は緋月だ。スカーレットではない。
「紫月の前でスカーレットって呼ぶなよ」
「はいはい、そうでしたね、緋月くん?」
ライトはくすくすと笑いながら、言い直した。
どうやらスカーレットはここでの緋月の呼び名らしい。
「会えて良かったよ、紫月。でも、探してくれてるなんて、な…」
苦笑いして緋月は紫月を抱き寄せた。抱き寄せる腕と優しい声は少しも変わっていない。
「お兄、ちゃん…っ」
目尻から溢れてくる涙もそのままに、紫月も緋月に抱きつき返した。
その夜は、緑いっぱいの森を奥に進んだところにある小さな集落の中の一つの小屋で緋月と紫月、そしてライトとシャドウも加わり、一夜を過ごした。
一年前、緋月はこの地上を開拓している集団のことを知り、紫月を一人残すことも躊躇いながらもあの街を後にしたという。
「いつか、紫月に本当の空を見せたかったんだ」
窓際に座っていた緋月は夜空に広がる一面の星を見回した後、視線を紫月に戻し、笑顔を向ける。
紫月は緋月の傍に行って、その星空を見回すと緋月に微笑み返した。
荒れ果てた大地が完全に緑を取り戻し、人々がまた地上に戻るのはまだまだ先のこと。
しかし、誰よりも早く地上に戻った者たちは、最期まで地上に人が戻ることを望んだと言う。
終。